新しいエルサレム 2015 2 11 National Foundation Day

 ニュースによると、フランスでは、
ユダヤ人が身の危険を感じて、
イスラエルに移住するという。
 しかし、今のイスラエルは、
「古い神殿」となって、やがて崩壊するでしょう。
 多くの人に、今の東京が、
「新しいエルサレム」と認識されるまでには、
数百年の歳月が必要となるでしょう。
 私が今の東京に行けば、
「エルサレム」を感じます。
建造物にもデザインにも、それを感じます。
 もちろん、誤解のないように書いておきますが、
こうした建造物やデザインは、
日本人の資金によって、
日本人の設計者やデザイナーによって作られたものです。

命のビザのリレー 2013 10 13

書名 歴史街道 平成25年11月号 PHP研究所
    「杉原千畝とサムライたち」

 杉原千畝(すぎはらちうね)は、
在リトアニア領事代理の時に、
ナチス・ドイツの迫害から逃れてきたユダヤ難民たちに、
本国の外務省の反対を押し切って、
日本へ渡航するビザを発給し、
6,000人の命を救ったことで知られています。
 しかし、それで、すべてが解決したわけではなく、
ユダヤ難民の苦難は続いたのです。
 ビザを得て、シベリア鉄道で極東を目指すユダヤ難民に、
次々と、苦難が訪れたのです。
 ウラジオストクでの日本への渡航不許可、
わずか10日間の日本での滞在期限、
そして、つきまとう強制送還の恐怖。
 しかし、そんなユダヤ人の窮状に、
手を差し伸べる日本人が、次々と現れたのです。
 ウラジオストクの日本領事館で、
総領事代理を務めていた根井三郎(ねいさぶろう)は、
「杉原が発給したビザを容認するな」という訓電を
本省から受けていました。
これは、ドイツへの配慮です。
 しかし、根井三郎は、
「公館が発給したビザには、日本の威信がかかっている。
これを無効にすれば、日本は国際的信頼を失う」として、
本国の命令を拒否し、
自らの判断で、ユダヤ難民を日本へ向かう船に乗せたのです。
 海路、日本に到着したユダヤ難民は、
敦賀(つるが)や神戸で、地元の人たちに温かく迎え入れられました。
 所持金のないユダヤ難民に、
無償で食べ物や宿を提供し、銭湯を開放しました。
 しかし、またも、ユダヤ難民に、新たな苦難がやってきました。
ビザで許される滞在期間は、わずか10日間でした。
行くあてのないユダヤ難民には、あまりにも短すぎました。
 そこに登場したのが、小辻節三(こつじせつぞう)でした。
ユダヤ人の苦境を知った小辻節三は、
即座に自ら東奔西走して、
当局に掛け合って滞在期間の延長、
そして渡航先探しに献身的に協力したのです。
 当時、日本国内にも、ドイツの圧力がかかっていて、
小辻節三の身にも危険が迫りますが、
ユダヤ難民救済をやり遂げました。
 もちろん、杉原千畝の決断が最も勇気あることには変わりありません。
杉原は、ビザを発給すれば、
ナチスの方針に逆らったとして、
家族に秘密警察の被害が及ぶことを恐れていました。
 1ヶ月前、ポルトガル総領事の家族全員が、
ビザ発給の手伝いをしたため、即時解雇され財産没収、
一家離散となったことを杉原は知っていたようです。
 それでも、杉原はビザを発給したのです。
もちろん、杉原の決断を後押しした妻の幸子の存在も大きかったと思います。







































































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